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芸術・絵画・アート・映画・ときどき俺のこと


今日は俺の人生をざっくり話そうと思う。
どうやって、俺と言う人間が出来たか。
まず、1973年4月8日、アフリカ・ウガンダにて産まれる。
俺の誕生日は、ピカソが死んだ日。
何か運命的なものを感じるよね。
父親の仕事が、小さな診療所の村医者。
兄弟は、6人、で末っ子。まあまあ、貧しい生活だったよ。
水なんて川にくみにいかないとないし、トイレは外w
とりあえずよくわかんねー動物が周りにわんさかいるって感じ。
そんなとこで、幼少期を過ごすわけだけど、当然学校なんてないわけだから、母親から読み書き学んで、簡単な算数なんかやるぐらい。
あ、父親は日本人で、母親がスペイン人。
だから、小さい頃から日本語とスペイン語、で育ったわけ。
とにかく小さいころは、外で遊ぶってのが当たり前だったんだけど、原住民のいわゆるほぼ裸で狩りやって生きてる人たちと仲良くさせてもらってさ、まあ、父親の仕事がら割と村では感謝されてたってのもあるんだけど。
ほとんどただで治療してたからね。
まあ、代わりに肉とかなんか貰ってたんだけど。
そんな人たちと暮らしてたからさ、何か神様ってのが自然の中にあるっていう彼らの宗教的な考えが、俺の中にあるのよね。
とにかく毎日、果物取りに兄弟と森に入って、虫とかとって食ったりさ、川で遊んで、昼寝みたいな生活よ。
あ、昼寝は絶対木の上でやんないとダメなのよ。
下で寝てると動物に襲われるって言われてた、まあ、ホントかどうかは知らないんだけど。
だから、どこでも寝れんのよ俺w
友達はさ、原住民の同じくらいの年ごろの子たちなんだけど、言葉とかじゃなくてなんか奇声でコミュニケーションとってたよねw
あんまり、覚えてないけど。
あ、電気は発電機があったんだけど、基本的に診療所で使ってたから、家はロウソク。
夜は早いよw
って言っても、一日中外で遊び回ってるから、クタクタですぐ寝ちゃうんだけどね。
そうそう、今でも鮮明に覚えてるのがさ、一回だけさ、原住民の人たちの儀式みたいなのに入れてもらったことがあってさ、火を囲んで動物の血で体に模様を描いて、歌と踊りで神様に感謝するって言うやつなんだけど。
多分5歳ぐらいだったと思うんだけど。
歌と太鼓しかないんだけど、なんか風とか動物の鳴き声みたいなのがさ、変にマッチしてさ、すごいパワフルで楽しいんだけど。
でも、なぜか、とてつもない深い闇の中に自分がいるって言う、なんか漠然とした怖いイメージを持ったんだよね。
何か死ぬってことを初めて考えた気がするのよ。これ、すごく覚えてるよね。
まあ、そんな暮らしが8歳ぐらいまで続いたんだけど、事件が起きてさ。
家の兄弟の次男がさ、ある日ライオンに殺されたのよ。
信じられなかったよね。人間ってこんな簡単に死んじまうんだって。
だけどね、一番ショックだったのはさ、そのライオンを村の人たちが殺したんだけど、それを見た時にさ、人間の怖さみたいなのが見えた気がしてさ、なんだろう復讐みたいなさ、食べない者を殺す怖さみたいなのを感じたよね。
あのライオンの、見開いた、死んでるんだけどさ、ギラギラした目がさ忘れられないよね。今でも。
そんなことがあって、父親はアフリカに残ったんだけど、俺たち兄弟と母親は母親の実家のスペインのマドリードで暮らすことになったのよ。
たまげたよね。
一回も村の外に出たことない俺は衝撃だったよ。
こんな世界があるのかってね。見るもの全てが新鮮!今まで見たことないものだらけだったよ。
それから、マドリードの小学校に通うわけだけどさ、もう、あわないよねw
まず、座ってらんないのw
とにかく、すぐどっか行っちゃってさ、毎日母親は呼び出しよ。
ただ、美術の授業だけは大好きでさ、初めてさわるクレヨンや、絵の具でさ、好きなもんひたすら描いたよね。
それまではさ、動物の血とか、実とか、葉っぱとか、土だったんだよ。俺の絵の道具はさ。
こんなに色鮮やかな物があるんだってさ知ったんだよね。
まあ、問題児ではあったんだけど、何とか小学校は卒業させてもらえたんだけど、中学はもう留年。
諦めた母親は、ある絵の工房で弟子入りの話を見つけてくれてきてね。
俺は、大喜びよ!
学校行かなくていいなら、何でもよかったよね。
そこで、14歳から働き始めるんだけどさ、従業員三人の小さな工房でね、映画のポスター描いたり、有名な絵画の模写を作ったりするのが主な仕事なんだけど、まあ、俺はさ、言われたとうりに、色を塗るって仕事よw
これが意外と楽しくてね、みんないい人でさ、昼ごはんは女将さんの手料理で、大体ワイン飲みながらさ、大きな声で冗談みたいな話をいつまでもやって、俺なんかいつもからかわれててたんだけど、何か大人の中に混じってることが楽しかったよね。
俺はさ、ここでずっとこんな仕事して生きて生きたいなーって漠然と考えてたのよ。
が、こんな俺の生活を一変させる出来事がおこるのよ。
なんてことはない、生まれて初めて美術館に行ったんだよ。
そこで、ピカソゲルニカと出会うん。
世界がひっくり返ったよね。
今まで、描いてた物が何でもない、ただの塗り絵だってことに気がついたのよ。
こんな絵の世界があるのか!
体から溢れてくる情熱をキャンバスに叩きつける、闘いがそこにはあったのよ。
それから、工房での仕事が嫌になってね、仕事は続けてたんだけど、家で自分の絵を描くようになるのよ。
それがさ、全然描けないわけw
なんかさ、何描いていいかわかんないのよ。
この頃さ、とにかく休みの日にマドリードの美術館に通っては、巨匠たちの作品を見て回ったよね。
ここで、色んな技法や絵の種類を学んでさ、キャンバスと絵の具持ってって模写の日々よ。
そんな俺を見てさ、母親が一冊の本を誕生日にプレゼントしてくれたのよ。
ダヴィンチの本だったんだけどさ、これを見て、俺は一気にイタリアに興味がわいたわけ、この時20歳。
今まで貯めた、なけなしの金持ってさ、単身イタリアに乗り込んだよね。
俺さ、マドリードしか知らないのよ美術館。
これがさ、イタリアきたら全然同じ、いやそれ以上の画家の絵がぼんぼんあるわけ。
もうさ、無理だと思ったよね。
とりあえず、ワイン作ってるとこに住み込みで入れてもらってさ、ブドウ育てながら絵を描いて、美術館に行く。
この生活の繰り返しよ。
ただね、やっぱり思うような絵が描けないのよ。
イメージはあるのに、キャンバスに塗ると違うものに変わっちゃう。
手がさ、イメージに追いついてこないのよ。
そんな時に、ワイン作ってるさお爺さんが一枚の絵を頼んでくれたのよ。
私の肖像画を描いてくれないかって。
今思えば、売れない絵を描き続ける俺を見かねてさ、頼んでくれたんだと思うんだよね。
でね、そのお爺さんからの注文が、君の自由に描いた私の絵、だったの。
喜んだよ、俺の絵でいいんだってね。
夢中になって描いたよね。
お爺さんの優しさとか、一緒にワイン飲んだこととか、畑で寝っ転がりながらタバコ吸ってるとことかさ。
そう言う、全部の思い出何かがさキャンバスに描かれている感じがしたのよ。
一筆一筆がイキイキとしてたの。
はじめての感覚だったね。
完成まであっという間だったね。
それをさ、ドキドキしながらお爺さんに渡したらさ、お爺さん、泣いたのよ。
こんな素晴らしい絵をありがとうって。
それからしばらくして、ある画商が訪ねてきたのよ。
お爺さんのワインの顧客だったんだけどね。
その人がさ、俺の絵を見せてくれっていって、俺は、きったねー屋根裏部屋に案内したのよ。
でね、じっと絵を一枚一枚みてさ、言ったのよ。
ニューヨークに来ないかって。
生活に関する全てのものをこちらで用意する。って!
もう、意味がわからなかったんだけど。
お爺さんも、働いてる人たちみんなもさ、みんな喜んでくれてさ、あっという間に行くことになったんだよ。
質素だけど楽しいお別れパーティーも開いてもらってさ、はじめてのニューヨークだよ。
当時27歳。
とにかくさ、忙しかったよね。
二カ月後に個展やるからって画商のおっさんに言われてさ、キャンバスも絵の具も全部用意してくれるわけ、描きまくったよね。
でさ、今まで描いた絵に新作加えて、初個展を開くのよ。
これがさ、馬鹿みたいにぼんぼん売れるわけ。
何が起こってるかわからなかったよね。
それからさ、一気に生活は豊かになって、色んな人が俺のアトリエに来るようになってさ、先生なんて呼ばれたりしてさw
もう、調子のってたよw
それから、どんどん絵描いてさ、二回、三回って個展開いてさ、高級なレストランで食事したり、女遊びしたり、薬や酒なんかやりながら、ちやほやされてたわけ。
もうさ、俺のサインがあればいいのよ。
なんでもいいの描いてある絵なんて。
キャンバス塗れば金になる。そんな気分だった。
もうね、絵に感情がなかったよね。
俺自身、描いてる喜こびも苦悩もなくなっちまってさ、ただただ金を稼ぐために色を塗るっていう作業になってたんだ。
だけどさ、ある日突然、筆が持てなくなったのよ。
本当に突然。
描けないのよ。何も。イメージも何も出てこない。
絵の具がただの色の塊にしか思えない。
混ぜると何色になるかもわからない。
初めは、画商のおっさんも、まあ、そういうことはあるよ、ゆっくりやりなさい、なんて言ってくれてたんだけど。
何ヶ月もさ、絵を描けない俺に愛想尽かして、あっという間に居なくなったよね。
ちやほやしててくれた奴らも、誰も訪ねてこなくなってさ、金はなくなる。
体は酒と薬でダメになる。
ある日、ギャラリーに行ったらさ、若い画家の個展のオープニングパーティーが行われててさ、俺のことちやほやしてた奴らに囲まれてワイン飲んでる光景を目にしてさ、俺は、終わったんだと思ったよね。
そんな時にさ、父親が病気で倒れたことが知らされるのよ。
よく、考えたらさ、もう、自分の事ばっかり考えて、家族がどうしてるなんて何も気にしてなかったのよ。
すぐに、アフリカに飛んだよ。
母親も来てて、兄弟も集まってた。
父親は、ほとんど話せない状態でさ、ただありがとうって言ってた。
その夜、静かに亡くなったよ。
葬儀はさ、親父が頼んでたとうりに、原住民の人たちのやり方で祭りのようにとりおこなわれた。
不思議な気分だったね。
考えたらさ8歳の頃から、一度も帰ってきてなかったのよ。
この大自然の中に帰ってきてさ、森の匂いとか、動物の生きる姿とかそういうのがさ、なんか懐かしくて、忘れてた大事なものが、体の中にすうーっと入って来るのを感じたんだよね。
都会で、金のことばっかり考えて生活をしてる自分がさ、なんだかちっぽけな存在に思えてさ。
それから、しばらく、アフリカで母親に今までの生活の話したりさ、あ、手紙なんかは書いてたんだけどね、やっぱり会って話しするとさ、また違ってね。
兄弟たちがどうしてたか、なんてのを酒飲みながらワイワイやったよ。
久しぶりにさ、なんか暖かい感じになったんだよね。
そこでさ、ある女性に出会うんだよ。
村にさ、原住民のアートを研究に来てた、若い日本人の女性だったんだけど。
仮面とか、洞窟の壁画とかそういうの調べてたのよ。
髪が長くてさ、目がクリクリしてて、ちっちゃくて、パワフルで。
もうさ、一目惚れだったね。
お互い、共通の芸術に対する思いみたいなのがあったから、あっという間に親しくなれてさ。
夢中だったよ。
たったの数日間だったんだけど、本当に楽しかったんだ。
でも、別れはあっという間にやってきてさ、彼女はメキシコに住んでて、大学で研究してたんだよね。
だから、帰んなきゃ行けなくてね。
彼女と別れた後もさ、彼女のことばっかり考えて、気がついたらメキシコ行きの切符を手に空港にいたんだよ。
ただ、何も知らないって事にメキシコに着いて気がついたんだよ。
彼女がどこの街の、どこの大学にいるかって事、なーんにも知らなかったんだよね。
とにかくさ、メキシコの大学を片っ端から探したよ。
金もねーから、本当にバックパッカーみたいな生活しながらさ、何ヶ月も探したんだ。
でもね、結局見つからなかったんだ。
途方にくれたよ。
そこでね、ある街にたどり着いたんだよ。
サンミゲル・デ・アジェンデって言う、小さな街だったんだけど。
そこはさ、芸術の街でさ、街中が色で溢れてて、ちょうど春だったから、街はハカランダの花が満開でね、こんな美しい街があるのかと思ったよね。
俺は、この街でしばらく暮らす事にしてさ、久しぶりに絵を描いたんだよ。
道の端っこに、イーゼル置いて、なんてことはない街の風景なんだけどさ、不思議だったね、今までの人生がドンドン蘇ってきてさ。
それが、ただの風景画の中に、色にさ出てくるのよ。
静かでさー、でも、溢れてくるのよ想いが。
気がついたら涙がこぼれ落ちて・・・
突然、
「ゆいくん」って呼ばれたのよ。
振り返ったら、そこにはさ、柔らかく微笑んでる彼女がいた・・・

なんて、そんな訳はなくてさ、これ全部嘘でさ。
エイプリルフールってわけよ。w
親父も、元気に今日も実家で安ワインのんでるわw
じゃっじゃっじゃじゃw

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